この寺は、鎌倉時代には真言宗の胎鏡寺とよばれていて住持は、東林坊と仏像坊の兄弟であった。この二人はのち日蓮聖人に帰依した内房尼御前の子息である。
兄は、駿河国岩本の地を治める上野氏の郡代官をつとめ「内房殿」とも称されていたことがあり、この頃から岩本実相寺の住僧巌誉律師(ごんよりっし)と親しく交わっていた。正嘉二年(一二五八)前年におきた大地震さらに餓えや疫病などの世の災難を目撃された日蓮聖人は、経文にもとづいて災難の原因とそれへの対策を明らかにしようと一切経の蔵せている岩本実相寺におもむいたが、この時、経の閲覧を許されずにいた聖人に、たまたま来ていた内房殿がまみえ、自らの邸に日蓮聖人を招いて母にもひきあわせ、母子は一夜に信伏、兄の東林坊と弟の仏像坊は母と長兄が帰依したのを怒って法輪を挑んだが、説き伏せられて同じく仏弟子となった。
日蓮聖人はこの寺に一夏九旬滞在したという。この後、胎教寺は長遠山久成寺と称し、さらに本成寺と名のり、身延山の末寺となった。
日蓮聖人を開基と仰ぎ、兄の東林坊は日報弟の仏像坊は日浄という名を聖人より賜わった。日報は二世、日浄は三世となって法燈をうけついだ。なお、当山は他宗より改宗した日蓮宗最初の霊場といわれる。